まず、昨日のエントリーを図でまとめてみる
ここですぐに疑問をもたれる方が大部分だろう。「なぜ「刑罰権は謙抑的に行使すべしという憲法の理念や刑事司法の原則」など必要ある?憲法なんてあるのは知ってるけど、読んだこともないし、刑事司法の原則なんて初めて聞いた。それでも真っ当な市民生活を送るのに何の不都合もない。そんなものそれこそ石頭の法律屋の屁理屈だろう?悪いことしてのうのうとのさばってる奴らはいっぱいいる。そいつらを厳しく処罰するのに何の不都合がある?」
おっしゃるとおり。これが一番の問題なのだ。だがこれについては、長くなるので他の機会に詳しく書きたいと思う。「刑罰権は謙抑的に行使すべしという憲法の理念や刑事司法の原則」は大事なんだという前提で以下小沢氏起訴相当議決、郵便不正事件を例にとり、検察審査制度自体の欠陥について述べてゆく。
検察審査会法
第一条 公訴権の実行に関し民意を反映させてその適正を図るため、政令で定める地方裁判所及び地方裁判所支部の所在地に検察審査会を置く。(下線筆者以下同)
「公訴権の実行」というのだから、「起訴すべきでないのに起訴する」「起訴すべきなのに起訴しない」という公訴権の不当な行使、不行使両方に「民意を反映させてその適正を図る」のかというと、
第二条 検察審査会は、左の事項を掌る。
一 検察官の公訴を提起しない処分の当否の審査に関する事項
つまり、検察の「起訴すべきなのに起訴しない」という不当な公訴権の不行使だけが検察審査会の対象だというわけだ。
そして、検察の「起訴すべきなのに起訴しない」という不当な公訴権の不行使に対しては今回の検察審査会法の改正により強制起訴という手立てが講じられたが、「起訴すべきではないのに起訴をする」というさらに不当な公訴権の行使に対してはまったく制限が掛けられていない。
それでは、「起訴すべきではないのに起訴をする」ということは皆無で、その部分では検察の信頼と権威が絶対的に護られており、「起訴独占主義」「起訴便宜主義」を制限する必要などさらさら無いのかというと、全然そうではない。
その一端を示すのが昨日、郵便不正事件での供述調書の証拠請求が裁判所却下されたという「大事件?」だ。(郵政不正事件についてはウィキペディア村木 厚子参照)
以下産経ニュース調書採否決定要旨より引用する。
産経ニュース【郵便不正】調書採否決定要旨 「取り調べに問題、調書に信用性があるとは」2010.5.26 22:26
■前提事実
各証人の調書は、いずれも大阪地検特捜部が黙秘権を告知して被疑者として取られた。取り調べ時のメモは廃棄されていたが、これが検察側の不適正な取り調べを推認させるものとはかぎらない。
■厚労省元係長、上村勉被告
検事は関係者の供述内容からストーリーを描いて取り調べに臨んでいた。被告の被疑者ノートには「自分1人でやったといったのに検事から『人間の記憶には限界がある。私にまかせて』といわれた」という記載があり、被告の公判供述と合致する。
検察側は被疑者ノートについて(1)なかったことを書いた(2)後から書き加えた不自然な部分があった-と指摘するが、被告は身柄拘束の当時から懲戒免職を覚悟しており、保釈後に書き加えたとも認められない。
従って、取り調べはあいまいまたは一面的な証拠評価で誘導された可能性があり、調書は被告の意思に反する内容が記載されたことになる。取り調べに問題があり、調書に特別な信用性があるとは認められない。
引用終わり
これに対して、「弘中弁護士は「まかり通ってきた検察、特捜のやり方を具体的に厳しく批判した」と評価した。」(障害者郵便割引不正:供述調書不採用 弁護側「無罪を実感」 検察、敗北感にじませ 毎日新聞 2010年5月27日 東京朝刊)
しかし、上述の要旨にあるように、裁判所はこの件に限って「調書に特別な信用性があるとは認められない」から検察側の証拠請求を却下しただけで、「まかり通ってきた検察、特捜のやり方を具体的に厳しく批判した」訳ではないのである。この裁判で無罪判決が出て(当然そうなるべきだが)検察が控訴した場合、控訴審で今回却下された証拠が採用され、有罪判決が出る可能性はまだあるのだ。まだまだ村木 厚子さんの前途に苦難が待ち受けている可能性はあるのだ。そうならないことを心から祈っているが。それほど、日本の刑事司法制度は腐りきっているということだ。
日本の刑事司法の問題点、代用監獄や人質司法、密室での長時間の取調べ、接見交通権の侵害、そしてこれらの仕組みによって捏造される自白調書の裁判での偏重など、国連拷問禁止委員会が改善勧告さえ出しているのに、指摘されている警察や検察・特捜の捜査や取調べのあり方全般に対しては、裁判所は相変わらず、見て見ぬ振りを決め込み、警察、検察は無視を決め込んでいると見たほうが良い。
そして、検察にはそんな問題点はあり得ませんという前提、建前で「公訴を提起しない処分」に関しては「民意」は反映させてやるが、「公訴を提起する処分」に関しては絶対に口出しさせない、というのが現在の検察審査会制度だ。
こんな制度、世界中捜したってどこにもない。と思う。ちなみにアメリカでは予備審問という制度で起訴をする、しないの両方が公開の場で裁判官により判定される。だから、検察審査会制度自体が、世界にも類例が無い、それ自体がまったくの片手落ち、半身壊死の欠陥制度であることは明白であろう。
ちなみに、「起訴すべきではないのに起訴をする」そして結果、裁判で有罪とされてしまった冤罪事件は菅谷さん足利事件だけではない。ウイキペディアで「冤罪事件及び冤罪と疑われている主な事件」をみてみるとびっくり仰天するほどの件数がある。
また「違法」捜査 志布志事件「でっち上げ」の真実」 「リクルート事件・江副浩正の真実」 「知事抹殺 つくられた福島県汚職事件」 などなど、警察、検察、特捜の悪行三昧で自白調書がでっち上げられる過程を暴露する書物が続々と刊行され、これが個別特殊な事例ではなく警察、検察の構造的な腐敗システムによることは一目瞭然だ。
それでは、現行の検察審査会が検察の「起訴すべきなのに起訴しない」という不当な公訴権の不行使にたいして、適正、有効で正しい議決が常に担保されているかというと、これまた全然そうではないのだ。
まず第一点目。
第二十六条 検察審査会議は、これを公開しない。
第四十四条 検察審査員、補充員又は審査補助員が、検察審査会議において検察審査員が行う評議の経過又は各検察審査員の意見(第二十五条第二項の規定により臨時に検察審査員の職務を行う者の意見を含む。以下この条において同じ。)若しくはその多少の数(以下この条において「評議の秘密」という。)その他の職務上知り得た秘密を漏らしたときは、六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
となっている。だから一体どんな議論過程をたどって不起訴相当、不起訴不当、起訴相当の議決をされたのかは誰にもわからない。そして、その秘密の評議でなにが行われるかというと、
第二点目
第三十五条 検察官は、検察審査会の要求があるときは、審査に必要な資料を提出し、又は会議に出席して意見を述べなければならない。
第四十一条の二 第三十九条の五第一項第一号の議決をした検察審査会は、検察官から前条第三項の規定による公訴を提起しない処分をした旨の通知を受けたときは、当該処分の当否の審査を行わなければならない。
ええ?!検察審査会が要求しなければ検察官は資料提出も意見を述べることもしなくて良いということー?しかも検察審査会が起訴相当議決をした後、検察官が再び不起訴処分をした場合はその旨を通知するだけで足りるのー?然り、この処分に対して行われる審査会に対して必ず資料提出、説明をしなければならないとはどこにも書いていない。
しかも検察官は「審査会の要求に応じて」資料を提出し説明するだけなので、審査会メンバーの先入観や固定観念がその「要求」入り込む余地は大きいし、検察官の思惑により資料提出や説明が行われるという恣意的な操作も排除し切れない。ようするに審査会のメンバーや審査補助員の弁護士が処罰感情に凝り固まっていれば、検察官の資料や説明など無くても、起訴相当の議決が論理上可能なのだ。また、検察官も絶対に起訴をされたくない場合はそれに沿った資料の提出と説明をすればよく、逆に、どうしても証拠が固まらず起訴できないときでも、その限界を超えてなんとか市民の皆さんで起訴してくださいというニュアンスでの資料の提出と説明が可能だということだ。
さらに第三点目、最も重大な、憲法違反が強く疑われる明らかな制度欠陥。
第三十七条 検察審査会は、審査申立人及び証人を呼び出し、これを尋問することができる。
検察の不起訴処分に対して強制起訴が行われる場合、最も不利益をこうむるのは被疑者だ。しかし、この被疑者に対しての起訴相当議決を出す前の「告知と聴聞」を義務付ける条文は見当たらない。これは明らかに「告知と聴聞」による適正手続きを規定する憲法三一条に違反する「酷痴と醜聞」にあふれた違憲な制度だ。
日本国憲法 第31条 何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。
憲法第三版P222~P223 芦部信喜著
第一一章人身の自由 一基本原則 2適正手続き
「(1)憲法三一条の意義
三一条は、法文では手続きが法律で定められることを要求するにとどまっているように読める。しかし、それだけでなく、①法律で定められた手続きが適正でなければならないこと(たとえば、次に述べる告知と聴聞の手続き)、②実体もまた法律で定められなければならないこと(罪刑法定主義)、③法律で定められた実体規定も適正でなければならないことを意味する、と解するのが通説である。」
「(2)告知と聴聞
三十一条の適正手続きの内容としてとりわけ重要なのが、「告知と聴聞」を受ける権利である。「告知と聴聞」とは公権力が国民に刑罰その他の不利益を課す場合には、当事者にあらかじめその内容を告知し、当事者に弁解と防御の機会を与えなければならないというものである。この権利が刑事手続きにおける適正性の内容をなすことについては、すでに判例も認めている。」
以上、「起訴すべきなのに起訴しない」という局面に限っても検察審査会制度は、違憲の疑いが強い、重大な欠陥を内包する制度だと判断せざるを得ない。
そして、この制度的欠陥が、小沢氏の起訴相当議決のように不当に処罰範囲を拡大し、不起訴の議決が妥当であるにもかかわらず、「起訴すべきでないのに起訴をする」という議決、冤罪を誘発する可能性をいとも簡単に現実化してしまうのである。
むろん、個別のケースにおいて、「起訴すべきなのに起訴しない」という不当な公訴権不行使をきちんとチェックしているものもあるだろう。
明石花火大会歩道橋事故については「警備計画作成段階にまでさかのぼらないと事実関係は理解できず、過失の把握について当日の過失のみに限定はしない。これまでの警察や明石市、警備会社担当者の刑事裁判で、検察官が当日の注意義務違反のみを訴因とし、当日の過失のみが裁判の対象となっている点は理解できない。」(さんようタウンナビ明石花火事故の議決理由要旨参照)とされ、警備計画作成段階にさかのぼった上での過失判断には説得力があると僕は思う。
しかし、JR福知山線脱線事故の場合は「JR西管内に多数存在するカーブのうちの一つにすぎないのではなく、特に危険性の高いカーブとなった。従って、代表取締役社長だった3人には現場が危険性の高いカーブであったとの認識があったと考える。」(47NWES神戸第1検察審査会の議決要旨参照)とされているが、なぜ「特に危険性の高いカーブとなった」ことが直ちに「認識があったと考えられる」につながるかが判然としない。認識があったことを示す具体的な証拠があるのだろうか。これで刑事責任を問われ法廷に引きずり出されるという負担を負わせられることには僕は懐疑的にならざるを得ない。たとえ結果の重大性や被害者、遺族の無念を考えても、だ。
さらにこの検察審査会という制度の、将来最も危惧される事態を述べておく。
まず強制起訴を食らった被疑者は、検察審査会が「告知と聴聞」の制度を持っていない違憲な制度だとして検察審査会の議決の違憲無効を求める行政訴訟を提起する可能性がある。逆に審査申立人は、検察審査会が不起訴の議決をした場合、検察審査会は検察の不起訴処分に対しての不服申し立てとみなせるから、不服申し立て前置を原則とする、検察の不起訴処分に対する行政訴訟を提起できる可能性がある。かなり狭き門だが。
どっちにしても、理論的には、訴訟が乱発され、ものすごい手間とコストをかけて、裁判によって起訴、不起訴を決めるということが起こりかねない。そして、ものすごい手間とコストのかかる、アメリカの予備審問制度とは似て非なる、エセ予備審問制度に限りなく近付いてゆくことが危惧される。
これはどういうことかというと、検察の不起訴処分については「民意」を反映した予備審問制もどき、起訴処分については、冤罪や自白の強要などものすごい問題があるのに放置して、検察の起訴独占主義、便宜主義を維持するという、根本理念が全然違う制度をむりやり接合したキメラのような化け物ができたということだ。どういう理念でどういう刑事司法制度を採るべきなのかという根本的な議論がおざなりにされ、検察の起訴独占主義、起訴便宜主義に「民意」を騙った予備審問制度もどきが接木された非常に日本的な曖昧模糊とした薄気味悪い制度だということだ。
だから僕はこんな制度はまず廃止して、取調べの可視化も含め、どういう刑事司法制度を採るのかを徹底的に議論するのが先だと思う。だからこの検察審査会という制度をどういじくりまわしても対処療法にしかならない。冤罪を誘発するのではないか、不当な不起訴の議決が出るのではないか、違憲訴訟が乱発されるのではないかという懸念は払拭できない。問題が後から後から出てくるんじゃないかと思う。
対処療法としてとりあえず改善策を挙げるとすれば
・起訴相当議決をする場合は必ず被疑者に告知と聴聞の機会を設ける。
・検察官の資料提出、説明は義務化する
・少なくとも被疑者や審査申立人には、審査会の面々の匿名性に配慮しつつ、また、当事者のプライバシーに配慮しつつ議事録や評議の録音録画を公開する。
・憲法の基本理念、刑法の基本原則を学ぶ講習を法定し、検察審査会のメンバーに受けさせる。この講習内容も必ず公開し法定した講習内容をきちんと教えなかった、習得しなかった場合の検察審査会議決は無効とする。
くらいかなあ。
僕のような検察審査会は廃止しろ、などという素人の暴論?はさておき、もっと常識的に誠実な論理を展開されているブログがあるので紹介しておこう。
法と常識の狭間で考えよう「検察審査会制度の改革と今後の課題」また同じブログの「刑事事件における最高裁判所の役割について考える」も昨日のエントリーで述べたスワット事件について述べられているので是非ご参考にしていただきたい。
さらにBecause It's Thereというブログでも今回の小沢氏起訴相当議決に対して非常に詳細多岐にわたる批判を加えているので是非参考にしてもらいたい。「小沢一郎氏「起訴相当」と議決、陸山会事件で検察審査会~検察審査会は「陶片追放」制度と化してしまったのでは?」
最後に今日のまとめを図示しておく。