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2010年6月17日 (木)

琴光喜の野球賭博とサッカーワールドカップ。同じ「物騙り」を感じる。

 子供の頃は相撲も野球も大好きだった。夕方、母親が晩御飯の仕度をしている台所からの良い香りにうきうきしながらばあちゃんと見ていた相撲中継。夏の夜にすいかを食べながら父親と一緒に観戦したナイター。どれも良い思い出だ。僕自身は球技よりも格闘技が得意なのでK-1が始まったときにはそれこそ熱中して見ていた。

そして、それももう昔話になってしまった。

 

今やメディアスポーツが騙る「物語」に辟易してしまうからだ。

メディアスポーツ解体―“見えない権力”をあぶり出す (NHKブックス) P78~P79 森田 浩之著

引用はじめ

「だが、それでも考えてみるべきなのは「なぜその物語なのか」である。甲子園について「自由奔放」「独創性」「アイデア」が語られないのはなぜか。高橋尚子の優勝について「偶然が生んだ金メダル」というストーリーがほとんど聞こえてこなかったのはなぜなのか。それは物語が作られるときの「動機のボキャブラリー」が文化のなかで決まっているためだと考えられる。

 私たちは「動機」というものを、行為や行動の原動力となる心の状態と捕らえがちだ。あの行為は「嫉妬」のためだろう、この行為は「保身の」ために違いないといった具合である。しかし、そのように与えられた動機を示す言葉は、いわば「後付」に過ぎないという見方を示したのが、社会学者のC・W・ミルズだった。

 ミルズは「状況化された行為と動機の語彙」と題する論文の中で、動機というものを、むしろ人々が他者や自分自身の行為を解釈し、説明するために使う「類型的なボキャブラリー」と位置づけた。動機は人間の内面にあるのではない。動機とはボキャブラリーであり、行為者の外側にある言語世界、社会的なシンボルの世界に位置するものだという。ミルズによれば、どんな社会にも動機に関する「類型的なボキャブラリー」が存在している。人々はあらかじめ用意されたボキャブラリーから適切なものを選んで、他者あるいは自己の行為を説明し、理解しようとしている。

 メディアスポーツの作る物語にも同じことが言えるだろう。「今度こそリベンジを果たそうとチームが一丸になったことが勝利につながった」「あのプレイが大事なところでできるのは、日ごろから集中してトレーニングしているからだ」といったゲームやプレイを理解しようとするための語彙は、あらかじめ文化の中に用意されているものだ。」

引用終わり

 そして、日本の文化のなかであらかじめ用意されている語彙や「物語」というものの貧弱さ、あざとさには心底うんざりさせられる。

 それは「日の丸」「君が代」であり「倫理」や「道徳」を表向きは異常に尊ぶ「社会」であり「自己責任」と「勝ち組」の「物騙り」だ。

日の丸を背負った選手達が勝った、日本はすばらしい。岡田監督の采配、戦略が云々。

又、勝った時にも負けた時にもビジネスとのアナロジーが喧伝される。実際は会社での昼飯時や飲み会での暇つぶしのネタとしてだらだらと消費されるだけだ。

 日本の国技である相撲の関取が賭博に関っていた。けしからん。朝青龍のときもそうだ。あれがけしからんこれがけしからん。文部科学省などという、それこそ日の丸君が代洗脳教育にまい進し、ご丁寧にも学校教育の武道に相撲まで入れた輩。こんなのが絡んでくるので、日本の国技という建前の「物語」にはなんとしても傷をつけたくないのだろう。どうせ体裁だけ取り繕っておんなじことが又続いてゆくだろう。問題の本質を隠し通す。それが官僚の最大の役割だ。

そもそも相撲など昔から胡散臭い噂が絶えなかったではないか。プロ野球だって相撲だって暴力団との関係なんて僕が子供のときから見聞きしていた。そんなものは周知の事実だろう。だいたい、銭金を目的に精進するのがプロのスポーツ選手だ。これに道徳だの倫理などを盾に偉そうに「かくあるべし」と宣伝する奴ら。そいつらの言説のほうがよっぽど胡散臭い。

 プロスポーツやそれに準じるスポーツにメディアが席巻されるときいつも感じることがある。

 いわゆるスター選手やそれを放映するメディアの莫大な報酬はどこから来るのか。偉そうに御託を並べるテレビのコメンテーターの報酬はどこから来るのか。派遣や非正規雇用、今や正社員も含めて、企業が社員から搾り取った銭ではないか。その銭がスポンサー料、広告宣伝費としてどぼどぼ流れ込んでいるのではないか。そして、スポーツに熱狂する人々に恥かしげもなく「物騙り」を刷り込み、銭を巻き上げ、銭に群がる有象無象がたっぷりと潤う。

 スター選手になれなかった人々はどうなっているのだ。努力をしても才能と運に恵まれなかった人々が極貧にあえいでいてもそれは「自己責任」か?

 そんな構造から垂れ流される、「ニッポン」だの「努力」だの「家族愛」だの「倫理」だのといった「物騙り」には心底うんざりする。

 小泉が日本を壊してから、スポーツ観戦も心から楽しめなくなった。

 せめて、選手の素晴しいプレイに集中できるように、余計な解説やタレントの馬鹿話、アナウンサーの戯言で煽るのは止めたらどうか。

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コメント

はじめまして。
Daily Cafeteriaという名称の携帯ブログをやっております。
おっしゃること、我が意を得たりという感じがします。
私が、自ブログで何度となく強調していた事と同様の事が的確に表現されており、なぜ、このような考え方がもう少し一般化し、力を持てないのか、日本のメディア状況には絶望するしかありません。
不勉強をさらけ出すようで恥ずかしいのですが、お取り上げになった本の著者である森田浩之という人を私は知りませんでしたが、日本にもこれだけ優れたスポーツジャーナリストもいるのなだなと思えば、多少は勇気付けられる面もありますね。
冬季オリンピックの国母騒動の際、彼は恐らく“メディア権力”の“琴線”に図らずも触れてしまったのでしょうが、私は彼の絶対的擁護を試みました。
が、ほとんど読者も存在しないような個人ブログでいくら吠えてみても、若干の虚しさは残りますね。
スポーツ関連のブログ記事で、心底共感を覚えたのは貴ブログが始めてという感じです。
いかに、われわれ(と、言わせていただきますが)が少数派であるかの証左と言えましょうか。
CWミルズを援用して展開されているらしい森田浩之の本は、一般受けはしないでしょうが、このような本がNHKブックスから出ているのは若干の救いと言えるでしょうか。
それにしても、マスメディア(メディア権力)の圧倒的な物量作戦の前では、時に、米国の物量作戦に竹槍で対抗しようとした当時の日本人と同じような破れかぶれ的な無力感を覚えないではないですが、少しでも生きやすい日本を形成するためには、やはり、しこしこと頑張るしかないのでしょう。
それでは、また。

P.S.『瓶詰伝言』というタイトルを見て、ポリスを思い浮かべましたが、関係ないですか?

にいのりさん コメントありがとうございます。
Daily Cafeteriaを拝見させていただきました。同じような問題を見据えている貴ブログに心から共感いたします。
にいのりさんが指摘している問題、なぜ僕らは少数派なのかという問いかけは非常に重要だと思っています。僕は教育、メディアの発信するメッセージ、抑圧状況にある心理的な問題が相互に絡み合っていると見ています。これは僕にとっては大変重要なテーマなのでおいおい書いてゆきたいと思っています。

「瓶詰伝言」というネーミングはまさしくポリスの「Message in a Bottle」を念頭においています。

「僕は世界に向けてSOSを発信する。誰か僕の瓶詰伝言を受け取ってくれれば良いのだが。」

そして、今日にいのりさんに届いたわけです。

「孤独のメッセージ」はすでに孤独ではなくなりました。

少数派であることに誇りをもってこれからもがんばってゆきましょう。

にいのり です。
返信ありがとうございます。
また、私のブログもお読みいただき、ありがとうございます。
『瓶詰伝言』……やはり、ポリスでしたか。
おっしゃる通り、教育とメディアのあり方は重要ですね。
何を評価するのか、どう評価するのか、評価の力点は何かというのも重要ですね。
今にして思えば、若いころ、「ロックが好きだ。ロックは凄い」と認識した事、それは、「オルタナティブな評価基準があっていいんだ」という若く未熟な者なりの一大発見だったように思います。
そのような経験が若い頃に出来るか、これは、実際問題、後々の人生をも左右する大きな事だと思います。
点数教育だけを受け入れて育った者が、妙なエリート意識だけを獲得し、メディアの現場に参入し、そこでも良い点数だけを取ろうとする……このような事では、スポーツの世界であれ、政治の世界であれ、経済の世界であれ、無味乾燥とし柔軟性を欠いた評価基準ばかりがバッコしてしまうのも当然なのかなと思います。
そういう環境では、《教師の不在》という問題が起きて来ますね。
今、私は、マイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』を読み始めていますが、NHKの「ハーバード白熱教室」を見ても感じる事は、くやしいけれども、米国にはまだ《教師》が存在するという事です。
私の言う教師とは、「よき問い掛けを投げ与える者」です。
「よき契機をもたらす者」と言っても良いでしょう。

ネットは、玉石混淆であるほかないものですが、何かを求めてネットに接続した者が、“よき契機”に遭遇できるような場を、点在する公園のように作っておくことが、私たちの(別に誰にも求められてはいないかも知れないが)役割ではないかと思います。

お互い、頑張っていきましょう。
長くなりましたが、それでは、また。

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