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2010年7月24日 (土)

以前の僕もそうだった、「善良なる市民」の正体。2.法教育の不毛に日本の衆愚化教育行政が断固拒否している項目を見る。

 僕は立憲主義、すなわち公権力の行使を制限する根本規範という意味で、憲法を習ったことが有っただろうか。
 憲法がある事は知っていた。戦争の放棄を謳った9条があることも知っていた。思想・信条の自由、表現の自由があることも知っていた。
 しかし、誰が誰に対してこの権利を侵害してはいけないと命令しているのか、という認識は無かった。
 法律は僕に対する命令である。例えば物を盗んだり、人に怪我をさせたり、殺したりすることはいけないことだとは知っていた。その行為をすると警察に捕まり、裁判にかけられ刑罰を受けることも知っていた。
 憲法も同じものだと思っていた。罰は受けないかもしれないが、他人の自由を侵してはいけないという命令だと思っていた。誰かが僕の自由を侵害するとき、侵害するなと主張することはできる。それが権利の主張だと思っていた。
 だから、私人であれ、会社の上司であれ、警察であれ、僕の思想信条の自由、表現の自由、集会の自由を抑制しようとする者には敵対し、こちらの正義を主張する。その根拠が憲法だと思っていた。

 選挙が近づくと職場に自民党や公明党の名簿に記入することが求められる。僕は思想信条の自由を盾に記入することを拒んできた。管理職になったとき、僕が記入しないで回覧したら、後の社員も全員無記入。これには僕の上司が激怒した。僕は憲法を引き合いに出して抵抗した。上司はなんだかよくわからないが、憲法という言葉にびびった。その後選挙協力の名簿は僕を素通りするようになった。

 しかし、僕の主張は全然見当はずれだった。憲法の私人間効力、間接適用説など全く知らなかった頃の話しだ。

 法律は国家権力から僕に対する命令である。憲法は僕らから国家権力に対する命令である。
 知ってしまえばどうっていうことも無い、それほど難しいことではないのだが、なぜこんなことにずっと気がつかなかったのだろう。
 
法務省のHPに「法教育」というページがある。

000023152

この図を見てすぐ気がつく事は文部科学省が定めた新学習指導要領における法教育の貧弱さだ。
立憲主義などどこにも無い。ちなみに高校の新学習指導要領の公民分野を見ても立憲主義という言葉は全く出てこない。

最も強力な公権力の行使である刑罰権についても何も無い。あるのは裁判員制度を説明しろという内容のみだ。

「法教育の普及・促進に向けた法務省の取り組み」という図もある。
000023153_2

これからどういう法教育を導入すべきかを検討しているようである。一応立憲主義という言葉もある。
法務省では法教育研究会「報告書」というものを出している。このなかで、一応、「立憲主義を,「みんなで決めるべきこと,みんなで決めてはならないことを明らかにしたこと」として位置付けた。」と説明している。しかし、公権力は立法権だけではない。むしろ行政権力の行使、不行使のほうが問題になる。「公権力の行使を制限する根本規範」という視点をぼかしているといわざるを得ない。
刑事裁判については民事裁判との比較においてより厳密な適正手続きや検察の高度な立証責任に触れていることは評価できる。
しかし、最も懸念されるのは「私法と消費者保護」という項目において、消費に関る私的契約よりも、生きてゆくうえでさらに重要な私的契約、すなわち雇用契約については完全に無視を決め込んでいることである。
しかも、この法務省の検討内容が、どのように学校現場に導入されるのかは全くの未知数だ。
現在及び近い将来導入される新学習指導要領においては、立憲主義は論外、刑事裁判については裁判員制度のみ、重要な私的契約である雇用契約についても無視、という状況が続いてゆく。

僕が、立憲主義を知らなかったのはあながち不勉強だからというわけでもないようだ。

僕は経済学部出身なので大学で法律を学ぶ機会は無かった。社会人になっても立憲主義について学ぶ機会は無かった。

小泉政権の暴政に触発されてようやく「思いを現実化する力」が権力であると理解した。憲法は権力のなかでも、私的権力(私企業など)ではなく公権力を制限する根本規範であると遅まきながら理解したのである。そして、公権力を批判する基準は憲法の条文に書かれていると理解したのである。

官僚や政治家は法学部出身者が多い。当然立憲主義については学んだはずである。しかし、いったん公権力を握れば、下々の者にそんなことを理解されると、やりたいように公権力を振るうことができない。だからこそ、教育においてもそんな事は教えない。憲法を国民の義務を強調する形に変えてしまおうとする。


子供が始めて公権力の担い手たる大人に接するのは公立学校である。本来教師は公権力の担い手としての役割と、一人の主権者、労働者としての側面の両方を併せ持つ。しかし、今の学校現場では公権力の担い手としての側面ばかりが強制される。
特に生徒会などというものは噴飯物である。
ガッコのセンコのめんこがいやいやながら立候補し、一応立ち会い演説会やら投票など擬似民主主義が行われる。しかし、実権を握っているのはセンコである。センコの許しが無ければ何もできない。せいぜいセンコの負担を軽くする労働者として何とか委員が選ばれ掃除だの草刈だのが強制されるのが関の山だ。選挙で選ばれた代表に実は実権などは無く、官僚が権力を握っているというどっかの国のエセ民主主義の見事なカリカチュアだ。

例えば、デンマークでは義務教育の全ての学校で「学校運営委員会」の設立が義務付けられている。保護者の代表者5~7名、教職員の代表者2名、そして、なんと、6年生以上の生徒2名で構成される「学校運営委員会」は学校の授業計画を立案し、市町村の「教育委員会」に提案し、認可を受ける。その他様々な行事などの決定権も持っている。学校の自治が確立されている。(デンマークが超福祉大国になったこれだけの理由―どこが違うのか!?安心して暮らせる希望社会と無縁死3万人の国
 ケンジ・ステファン・スズキ著P95参照)
また、「デンマークでは小学生・中学生・高校生が国の教育問題に意見を出し、国会デモをすることも珍しくありません。」(なぜ、デンマーク人は幸福な国をつくることに成功したのか どうして、日本では人が大切にされるシステムをつくれないのか
 ケンジ・ステファン・スズキ著P51より引用)
さらに上述の法教育研究会「報告書」にはフランスの事例も掲載されている。
以下引用
「ルールの制定,改正に当たっては,子どもたちの声が反映されるよう,クラスや学校での議決事項が子どもの学校代表を通じて市長に伝えられ,ルールは父母会の意見を聴取した上で制定され,地区を管轄する視学官事務所に提出されて承認を受けることとされている。」引用終わり

子供も「思いを実現する力」権力を持っている。これほど有効な法教育があろうか。日本では子供どころか大人がデモに参加することも珍しい。

日本では衆愚化教育が連綿と継続されてきたわけである。

そして、この衆愚化教育のもとテレビや映画、漫画などによって善・正義VS悪・不正義という二項対立の見方が刷り込まれ、そこに公権力の無謬性が巧妙に忍び込むのである。
(つづく)

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