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2010年7月27日 (火)

以前の僕もそうだった、「善良なる市民」の正体。3.小沢氏の「政治と金」問題と政界の水戸黄門、渡部恒三の跋扈および「善良なる市民」の正体

  前回のエントリーでは日本の教育が立憲主義、民主主義についてどれほど貧弱かつ実体験の伴わない、試験答案用の知識の伝達で終わっているかについて、海外の事例との比較を交えて述べた。
 公権力に対しての批判、監視、さらには公権力に対して影響力を及ぼし、社会的な課題の把握と解決に自らが主体的に関るという経験がほとんど無いところに、テレビ、映画、漫画などによる刷り込みが徹底的に行われる。僕の経験を纏めてみると次のようになる。

・幼少期
異形の悪と正義の超人との二項対立、すなわちウルトラマンや仮面ライダーに代表される悪と正義の闘いが幼少期から盛んに刷り込まれる。
ここで重要な事は、普通の人間が実は超人的な能力を秘めた絶対的正義であり、その超人的な力は「変身」という契機で発動されるということである。
現実世界の人間ではなく、異形の悪に立ち向かう絶対的正義の超人という二項対立と、絶対的正義への同一化という刷り込みが、幼少期から執拗に行われる。善悪の二項対立、変身のための消費というそれぞれが大人になってもしっかりと保持される。

・思春期初期
 善悪二項対立の図式は変わらないが、超人が、過酷なトレーニングや人為的な改造を経て卓越した能力を発揮する人間に変わってゆく。例えば、ブルース・リーのカンフー映画、「600万ドルの男」などのサイボーグものなどである。
 ここにも、私人、公権力という区別は無く、あくまでも善・正義と悪・不正義の二項対立しかない。ただし、現実での自己認識により絶対的正義への同一化は揺らぎ始める。

・思春期後期
 ここらで、水戸黄門的な世界観が刷り込まれる。
 これがなかなか巧妙な仕組みになっている。
 悪・不正義は通常、公権力と私的権力の癒着という形をとる。悪代官と越後屋というパターンであり、公権力と私的権力は悪という要素で一体化される。
 この悪によって迫害・不利益を受け時に命を奪われるのは、徹底的に非力で脆弱な私人である。公権力に対抗する民主主義的な方法、私的権力に対抗する契約と法による方法などの区別は度外視される。そしてこの非力で脆弱な私人に対し援助の手を差し伸べるのが水戸黄門であるが、必ず、その正体は隠し、市井にいる非力な私人として関りを持つようになる。ご隠居様ということである。
 そして、最後の最後で「変身」する。変身アイテムは印籠、変身後の姿は絶対善、正義、無謬性を体現する公権力、水戸光圀公である。
 悪は、私人、公人に関り無く絶対正義の公権力のまえに跪く。
 この物語には幾つかの意味がある。まず、悪は私人と公人が渾然一体となり、その区別無しに絶対悪として描かれる。悪によって迫害を受ける私人は徹底的に非力で脆弱であり、自らを救済することが、これまた、徹底的に不可能な存在として描かれる。そして、その救済を図ることができるのは、絶対善、正義、無謬性を体現した公権力であり、その公権力はいつでも市井にいて目を配り、必ず非力な私人を救済するというメッセージを発している。
裏返して言うと、非力な私人は非道を甘受せよ。反抗は無駄である。絶対正義の公権力が必ず救済してくれる。つまり、本来主権者である国民は自らの力、連帯の力、自発的な行動によって課題解決を図ることができる存在なのだが、その力を全否定し、全ては他人任せ、お上任せにせよというメッセージが情動に刷り込まれることになる。現実の自己の不完全さという認識は、お上に保護され、包摂されることにより払拭される。そして、印籠というアイテムによる「変身」は幼少期から慣れ親しんだパターンであり、その変身後の公権力にひれ伏す悪人どもを見て、この隠れたメッセージの刷り込みと同時に強いカタルシスを感じることになる。
 この反応は極めて情動的なものであり、論理や知性によって制御された意識ではない。大体、高校時代には、未熟ながらも、すでにそれなりのスタイルや価値観が形成されつつあり、時代劇など年寄りの見るもの、ダサいものと評価しているのだが、見ているとついつい最後まで見てしまい、「変身」による悪の退治というパターンに我知らず快感を覚えてしまうのである。
 そして、このパターンは繰り返し、繰り返し行われることにより、意識下にしっかりと刷り込まれることになる。
さらに、多くの娯楽時代劇がこのパターンを踏襲していることも、この情動的なカタルシスのパターンがいかに多くの国民に刷り込まれているかの証左であろう。遠山の金さん、私人を騙る「遊び人の金さん」が桜吹雪の刺青を露出することにより江戸町奉行に「変身」する。暴れん坊大将、貧乏旗本の三男坊に身を窶した若旦那、徳田新之助が最後に将軍吉宗に変身し悪を成敗する。他にも桃太郎侍などいろいろあると思われるが、面白いのはこれらのテレビ番組が皆パチンコ台になっていることである。脳内麻薬といわれるドーパミンの放出が、テレビ番組によるカタルシスと相乗効果をあげて、パチンコ中毒を蔓延させるのに一役買っているのかもしれない。
 
 ・大学生から社会人へ「善良なる市民」の完成
 高校受験を終えるとテレビも映画も見放題である。そこではものすごい数の刑事ドラマ、警察ドラマが蔓延している。実態をリアルに再現したように見えるもの、荒唐無稽なもの様々なパターンがあるが、ここでも、警察、検察は絶対善、正義として描かれる。たまに、悪として描かれる刑事や警官もいるが、これを成敗するのは、市井の私人ではなく、同じ公権力である刑事や警官である。
 テレビの刑事ドラマでは、時代劇のように悪をバッサリと切り捨てるというカタルシス効果は弱い。しかし、繰り返し、繰り返し警察、検察権力の無謬性、正義、善が強調される。そして、悪役の犯罪動機や犯行態様がステレオタイプ化して視聴者に刷り込まれる。  
刑事訴訟法を全く無視した、強制力、有形力を行使した違法な任意捜査があたかも当たり前のこととして表現される。視聴者は、任意捜査を拒むことができることも、強制された場合にそこで得られた供述調書などが違法収集証拠として、証拠能力を失うことも知らず、悪を討つためには当然のこととして、違法捜査を常識化してゆく。
 さらに、警察24時などという実録番組、ニュースの犯人視報道により、フィクションの世界の出来事が現実の事件に転換され、特に強力な公権力の行使である、刑罰権行使に対しての無防備な許容性が異様に肥大化する。
 さらに、ハリウッド映画に代表される勧善懲悪ものもカタルシス効果は非常に高い。なんせ、銃は撃ち放題、爆破し放題、ドッカン、バキュンと不死身の超人的なヒーローが悪を殺しまくる。元特殊工作員、元警官などが私人として悪をなぎ倒すパターンもあるが、ここでは、警察、軍隊などが、官僚的で、法に縛られ、融通の利かない役立たずとして描かれ、超法規的な破壊活動、殺人行為、傷害行為が容認される。
 ここまで、公権力に対しての無垢な信頼と善悪二項対立の図式が刷り込まれてしまうとフィクションの世界でも、現実の世界でも善悪二項対立のものの見方が定着してしまう。私人対私人の抗争、紛争とそこに関る公権力を分けて物を見るという思考形態は見事に払拭される。
 かくして、幼少期から刷り込まれた善悪二項対立の視点は、水戸黄門により善、正義、無謬の公権力が無力な私人を救済すると言う構図に置き換えられ、さらに、刑事ドラマ、警察実録映像、などにより刑事司法の無謬性へと高められてゆく。
 社会人となり日々の業務での強いストレスを解消するため、より刺激の強い、よりカタルシスを覚える、勧善懲悪の二項対立への嗜癖が強まり、現実の世界を見る視線も善悪二項対立の視線へと収斂する。特に、90年代後半以降、僕はドッカン、バキュンの映画や、破壊し続けるゲームに没頭した。市民運動なるものにも勧善懲悪の幻視を重ねていた。
 そして、現実に起こった事件に対しても、テレビを通すと公権力、私的権力、公人、私人の区別無く、善、悪、正義、不正義の対立にしか見えない。そして、自分はいつも善、正義の立場に寄り添っているとの幻想を持ち、仮にも悪が見逃されることになれば、カタルシスへの嗜癖が満たされずに激昂することになる。
 
見事な「善良なる市民」の出来上がりである。
 
 小泉政権下、公権力の行使を批判的に見るという「下から目線」を獲得して、はじめてこの呪縛から逃れることができた。

・小沢氏の「政治と金」問題と政界の水戸黄門、渡部恒三及び「善良なる市民」の正体
 さて、ここまで述べれば、反小沢氏の象徴的存在として水戸黄門、渡部恒三がもてはやされる理由も明白となる。あれほど醜怪で私怨に満ちた戯言を垂れ流す渡部恒三を、なぜマスコミが重用するのかが明らかとなる。
 小沢氏の陸山会事件では、公人、公権力を負託された議員として小沢氏を批判的に監視する視線と共に、公権力の行使の中でも最も強力な強制捜査権、公訴権を持つ検察という行政権力への批判監視の視線が不可欠だった。しかし、マスコミにはこの視線が徹底的に欠落している。
 小沢氏=悪・不正義、検察=善・正義という二項対立の図式が繰り返し報道される。検察審査会は強制起訴権限を有した時点で、明らかに公訴権を保持する公権力となった。市井にいる「善良なる市民」が検察審査会という印籠を掲げ絶対善、正義、無謬性を備えた公権力に「変身」したのである。この構造は裁判員制度にもすっぽりと当てはまる。
 そして、学者、評論家という人種は、実はこのパターンに最も毒されているお人好しではないかと思うことがある。あまりにも「善良なる市民」に無批判、無防備である。
 実際に検察審査会や裁判員裁判に参加する「善良なる市民」は刑事罰を与えることには躊躇を感じる健全さも持ち合わせていると思う。しかし、権威ある弁護士という検察補助員、裁判員制度では裁判官が、善悪二項対立の嗜癖を呼び覚ます事は極めて容易であろう。服従実験を持ち出すまでも無く、憲法に由来する、刑事裁判の原則を理論的に意識化していない「善良なる市民」に対して、刑罰権を発動することに対する躊躇、ある意味での健全さを破壊する行為は容易いことである。そして、どのようなプロセスでその破壊が行われるかは全く外部に知らされることは無い。絶対に知らしめてはいけない。

 そして、世論誘導を図るマスコミも、市井にいる「善良なる市民」が検察審査会という印籠を掲げ絶対善、正義、無謬性を備えた公権力に「変身」するというパターンを想起させることに必死である。それゆえ「善良な市民」の意識下にしっかりと刷り込まれたパターンを呼び覚ますために、政界の水戸黄門、渡部恒三を意識的に重用することは驚くにあたらない。
 陸山会事件におけるマスコミの報道姿勢には多くの批判が寄せられた。朝日新聞などは惨めな弁明特集まで掲載し、自己弁護に終始した。多くの読者がその姿勢に辟易し購読を止めた。朝日は二年連続の赤字経営に転落した。
 マスコミは残っている読者、視聴者に対して必死で情動に刷り込まれたパターンを想起させるために、渡部恒三とうシンボル、水戸黄門というシンボルに固執している。むしろ、マスコミ自体が、情動に刷り込まれたパターンに囚われているといったほうが良いかもしれない。それ以外の視点を持つことができないほど劣化しているのかもしれない。
 
 多くの国民は、90年代半ばから継続している暴政によって非常に痛めつけられている。生存に係わる恐怖と、ストレス、怒りに満ち満ちている。すでに、テレビや映画で得られるカタルシスでは到底間に合わないほどに切迫している。
 この先に二つの道がある。現実に起こる出来事に対して、あくまでも絶対善、正義、無謬性を体現する公権力という幻想を捨てられず、悪を成敗するように見える勢力に喝采を送り、自己を同一化しファシズムに直結する道。
 もう一つは、どれほど、テレビや映画でカタルシスを求めても満たされない現実、あまりにも酷い現実に、行政府、マスコミに対する不信を募らせ、知らず知らずに公権力を批判的に見る「下から目線を」を獲得して行く道。

 「善良なる市民」の正体に気づき、「下から目線」を獲得するために、テレビや映画を観るときに公権力と私的権力、私人と公人という分類を頭において鑑賞することをお勧めする。ストレス解消の効果は激減するが、理知的な分析の楽しみは倍増するだろう。

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